渦巻く知識

咆哮

八月十七日午後、古北芳康は過失致死の疑いで逮捕された。猟銃で人を殺害したのである。
彼は警察及び弁護士らに対して次のように語っている。
「殺意を持って銃で撃った」
と。

八月十四日の昼、古北は自分の芋畑が何者かに荒らされているのに気がついた。畑の南端の一角が掘り返されている。さてはイノシシが山から降りてきて掘り返してくれたなと、年明けに倒された柵の方を見た。
同じ地区の他のヤツらが修理費を渋って、結局業者に依頼するにはまだ至っていない。
山から降りてきた害獣が、始めに目をつけるのは古北の畑だ。古北が苦しみ喘いだとしても、彼らは知らぬ。畑を持ってまだ一年に満たない。古北がここに土地を借りた時から、周囲の誰もが彼を毛嫌いした。
「喋り方が気持ち悪い」
と言うのである。無論古北はそれを誰かに言われたわけではない。井戸端会議が耳に入ったに過ぎぬ。それが古北を指しているかは確認しようがない。
それでも古北はそれが自分の事であると確信できた。生まれ育った東京で、田舎暮らしに憧れながら工場で働いた五年間。大学に行った幼馴染たちがスーツを着て数字を操っているのを側目に、古北はようやくこの土地に来た。思っていた田舎暮らし。のんびりと地域の一員として生きていく人生。この地区という共同体の一部となり、歯車のように回っていく人生。それが古北の夢見たものであった。
これが現実である。
世間知らずの都会生まれの若造がやって来た。子供のころから手をかけた者はみな都会へ去っていった。代わりに来たのがこの若造だ。余所者に居場所など作ってやるかと言う心の声が聞こえて来る。古北は誰とも分かり合えずにいた。
古北は酒が飲めない。だから酒の場には行かない。東京ではそれが普通であった。酒も飲めないのに飲み会になぞ行かぬ。それが下戸の常識である。だから酒の席で誰かと仲良くなるなど検討もつかない。酒を飲んで腹を割った話ができるなど都市伝説に等しい。
この村では違う。酒を飲んでようやく一員。仕事よりも生活の共有が第一である。
だが古北はそれを知らない。知る術がなかった。古北の周りにはそのような常識は存在しなかった。

獣害は知識でのみ知っていた。味わったことはない。だからこれが本当にイノシシによるものなのか分からない。タヌキやハクビシンかも知れぬ。シカがこの辺りに出るとは聞かないが、山にシカがいないとは思えない。
とにもかくにも対策しなくてはならぬ。何か罠を仕掛けるか、とりあえず網を張るか。仕掛けようにも物がない。麓の町まで行かねばならぬが車で片道二時間の往来である。
することは他にもある。芋畑だけに費やすわけには行かぬ。
そもそも罠を仕掛けたとしてそれで問題の根絶になるか古北には分からぬ。それならいっそ猟銃で仕留めてやれば良いのではないか。
そう考えた古北は芋畑は後回しにして、他の事をやってこの日を終えた。

夜。
芋畑の見えるところに猟銃を構えた男がいる。
男はエンジンの止まった車の中で、ジッと待っている。ドアは開け放ち灯は消してある。
討ち取るべき敵が来るのを待っている。必ずやこの猟銃で討ち取り、その肉を食らってやると、その目は殺意に満ちている。
そうしているうちに夜は明けた。
黎明が東から薔薇色の歩みを進めてくる。葉々は朝露を纏い真珠色の光を放っている。男の目は真っ赤に充血していた。その目にはまだ殺意が燃えていた。


八月十五日。寝不足と疲労から古北の意識は朦朧としていた。
ただ身体だけが意識の外で働いていた。
徹夜には慣れている。若さに任せて夜通し働くことなど日常茶飯事だった。夜には強いという自惚れがある。一日二日寝ずとも平気だと自分に言い聞かせた。
その様子を見て隣人が訝しがった。
「そげんフラフラじゃ仕事にならんどが。お前大丈夫か。」
問う顔に侮蔑の色を見て、古北は辟易した。
ーーー馬鹿にされている。
またいつものように都会からきた軟弱者が農作業に適わぬ身体で仕事をしていると、馬鹿にされている。古北は彼を一瞥し、無言で立ち去った。隣人は眉間に皺を寄せてこちらを眺めていた。

黄昏が空から光を奪っていく。もうすぐ夜が来る。


芋畑を望む道端に車が停まっている。エンジンはついていない。ドアは開け放されていて、その傍に猟銃を構えた男が一人。男の眼は殺意に満ちている。
暗がりを枝木の折れる音が裂く。何者かがそこを歩いている。男はジッと構えている。身動き一つせず、まるでそこには居ないかのように。
黒い影が芋畑にやってくる。身を低くかがめているのか、四つ足で芋畑を漁る。一昨日の夜に掘り返された場所に沿うように、丁寧に掘っていく。
四つ足の獣は芋を掘り返すと食べるわけでもなく傍に積んでいく。まるで宝物を守るように、傍に芋を積んでいく。
男はジッと獣を見据える。それが何であるかを確かめるように。
獣は額の汗を拭うように前足で顔を拭くと、ふと二本足で立ち上がった。
「猿か?」
男は凝視するが獣はまるで野生の風格を持たない。紛れもなくそれは男と同じく人間であった。
男の眼に燃え上がるような悪意が灯る。背中から頭蓋を抜けて怒りが天に昇るのを感じる。耳の後ろから熱く燃え上がる気勢が頭痛にも似た衝動を孕んでいる。
男は猟銃を構えて立ち上がり、獣に向けて叫んだ。
「誰だ!この泥棒め!誰だ!誰だ!」
獣は飛び上がるように身を起こし両手を上に上げた。
上弦の月は見守るように空に座している。

「このクソ野郎!俺の畑を荒らしやがって!誰だ!貴様誰だ!くそったれ!」
男は噴き上がる怒りをそのまま言葉にした。背中から頭にかけて熱い蒸気が湧くように怒りが脳を染めていく。
獣は手のひらを男に見せながら呟く。
「日本語わからない。日本語わからない。」
その言葉は流暢な日本語の発音であった。
敵意はもはや焦燥に変わっていた。この害獣を駆除しなくてはならない。男の心内の殺意は義善に染められた甲冑を纏っていた。
獣が苦しみに似た笑顔を見せた。暗がりの中で男にはその歯だけが月光に照らされて見えていた。宵闇の中に白い歯が浮き上がる。それは男に嘲笑を向ける者たちの姿を連想させた。
「どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!馬鹿にしやがって!!」
男の気配を感じてか、猟銃に気づいたか、獣が怯懦の様相を見せる。
「待て!待て待て!」
獣が近づいて来るのを見て、男は殺意と恐怖とを抑えきれなかった。

激しい炸裂音と共に、射干玉の闇の中をドス黒い血煙が舞う。
獣は糸を切られた操り人形のように頽れる。
引き金を引くとほぼ同時に男の中から恐怖が去った。頽れる獣に烈々たる敵意を向けて、男は高らかに笑った。
害獣を仕留めたぞ。これでもう畑を荒らされぬ。敵は今ここに俺が討ち取ったのだ!
男は気勢を上げて高らかに笑った。

上弦の月が嘲笑うように夜を見下している。